5月半ばに脳梗塞で母が倒れた。緊急処置後数週間入院したが半身不随と意識障害の改善の見込みは全くなかった。91歳。自分の部屋に帰りたいと意識がまだあった初期の頃訴えていたので、意識障害からしばらく経つので退院し、自分の部屋に戻り(私の施設)今までとは全く違う完全介護の環境を整えた。ケアマネ曰く、口腔ケアをこれだけ徹底すると、経管栄養の意識が殆ど無いかたもここまで血色のいい状況まで戻るんですね、凄いです。と言ってくれた。かなり進んだ意識障害も時折目を開け、つけているテレビなどを見ているようなそうでないような,,それでもかなりの奇跡だと思っていた。周囲のスタッフの献身的サポートも素晴らしいと思った。
人の死は突然やってくる。昼までは通常だったが、夕方から高度に発熱し、夜には突然の呼吸停止。私は間に合わなかった。倒れる前日まで一人で買い物に出かけていたくらい元気だったのだが、あれよあれよと言うまの出来事のようで、涙腺が全く反応しない。しかし、心は平穏ではない。いきなり自分が幼かったときの思い出がめまぐるしく頭を回り始めた。
とても幼い私は母の背にいた。山に沈む夕日が静かに落ちていき、黒い稜線を境に美しいオレンジ色と青が混じった空が広がっている。母は子守歌を歌っていた。
また、あるとき母は私の小学校の時の弁当で、白米がアルマイトの弁当箱一杯に詰まっていて、その上に筋子だけが一腹。凄かった。忙しかったのだろう。教師として普通に働いていたのだから。また、あるとき私の運動会の弁当を作って応援にきてくれた。様々なおかずが美味しくてたまらなかった。一体いつ作っていたのだろうなど思ってはいなかったのだが。
父の思い出より、母の思い出が少しだけ甘酸っぱいのは優しさの種類が違うからだろうかと思ったりする。
予備校の時、寮に母から電話がかかってきた。池袋にいたものだから、駅構内での刃傷沙汰がニュースになっていたときだった。電話に出ると、、「あんたじゃないよね」「、、、、、、、、」あまりに唐突で言葉が出なかった。瞬間笑いがこみ上げてきた。これが母の愛情の表し方だったのだ。色々なことで心配をする。私が60になっても心配ばかりする。小さな心配の種を見つけてはそれに備えろと心配をする。こういう愛もあるのだ。
十数年前に父と母が老人ホームを探し始めた。父が脳梗塞になり母が介護が大変で施設に入りたいと、あちこちの施設を見学しては、あそこはこういう所がダメだとかあそこはこれはとても良いがアレがダメとか、なかなかいい環境が見つかれない話を聞いて、私が密かに考えていた老人施設開業を打ち明けてみた。猛反対された。何を今更また苦労を背負うのだという事だった。しかし、母の意見を十分に反映させれば素晴らしい施設が出来上がるのではないかと、私は自分にGOサインを出したのだった。施設が完成し父母が入居して父は4年目、母は丁度十年目の鬼籍入りだった。
梗塞で搬送され、当初は話すことも自分で食事を取ることも出来ていたが、徐々に病魔は広がり2週間ほどすると、意識レベルはかなり低下してきた。夜中の2時頃だっただろうか。左肩をトントンと叩かれて身が覚めた。怖くは無かったが一人で寝ているので何事かと思い起き上がったが何事もなかった。翌日母の見舞いに行くと意識レベルは殆ど無くその後回復することはなかったので、後から考えてみるとあれが最後の知らせだったのかなと思っている。
喪主として全ての仏事を終わらせても、悲しみは湧いてこない。暫くすると湧き上がってくるのだろう。故人の意思で、完全な家族葬として執り行った。皆知っている親戚のみの葬儀は最高に素晴らしい葬儀となった。生きている人のプライドのための故人の葬儀を望んでいなかった母なのである。
今更ながらなのだが、「無常は時を選ばない」、、釈迦の言葉に熱くなった。