7月 25, 2025

いいのか?歯科医師議員がいなくなったが。。

 今回の参議選挙で、とうとう歯科系議員は歯科医師ではない山田氏のみになった。比嘉先生の落選を受けて、関係諸氏はかなりショックだったと思う。我々も頑張ったが比例10万票で16位ではどうにもならない今の自民への逆風だろう。早くから比嘉候補の再選危機が言われていたが、具体的なてこ入れ選挙運動の詳細は連盟からは何も入ってこなかった。

これは、日歯連盟のあり方自体を再考するタイミングで、じいさま役員がふんぞり返っている場合じゃないのである。全国から若いアクティブメンバーの掘り起こしを図り、具体的な徹底した選挙選択を確立しなければ、旧態依然とした、名簿電話ポスター名刺、そして多額の政治資金に頼るだけの選挙待ちなど、今やあり得ない戦法だろう。そして、候補者は何をしたいのかどうなりたいのかというビジョンと将来の展望や目的を明確にして国民に知らしめるべきだったのである。

関連しそうな全てのSNSを覗いてみた。山田議員の比嘉氏応援があったが、そのほかは選挙応援に関して特に何もないのが今の日歯連盟の形骸化を指している。あったとしても。歯科医師のみならず関係者や一般人に全く周知されていない。国民に関連重要政策が全く伝わっていない。逆に目につくのが、歯科に対する誤解を元にした誹謗中傷に近いものや反歯科医師議員バッシング。あのさ、歯科医師やそのスタッフが社会にとって、国民にとって、どれだけ重要なのか、のべつくまなしに流さなくてどうするの!!

なぜか対策が何も取られていないので、いわゆる「歯科医師は評判が悪い」という風評を知っているのか知らないのか、釈明のデータを流すとか、まあとにかく何も見当たらなかった。歯科ジャーナリスト界隈でも、今回の結果は残念だが仕方が無いような気がするし、それよりも連盟が殆ど機能していない印象を受ける、、、という感想のようだ。

今回の選挙の敗北を念頭に入れて、歯系議員選挙のあり方を再考しなければ、次もその次もどんなにお金を積んでも(笑)無理になるのではないだろうか。いまや、支持率の低下している左翼自民党議員と昵懇の仲になろうが、まともな議員が激減している現状では、ロビー活動もままならない。

ロビー活動と言えば、私は過去20年以上にわたり、青森県保険医協会を通じ、幾度も衆参議員会館を訪れ、歯科の抱える問題や理不尽なシステムの紹介と是正の陳情をしてきた。比嘉先生にも3度ほど議員会館の事務所でお会いしてお話をした。私自身自民党員の所為もあり、野党議員よりも与党議員に重きを置いて、政策担当秘書だけでは無く直接議員とお話しする機会も沢山あった。国対委員長室まで招かれたこともある。(自慢じゃないが、議事堂向かって左の角、国対委員長室まで行った歯科医師いますか?(笑))

そのなかでの議員との会話だが、歯科医師会や連盟の偉い先生達が(笑)何かのおりにたまに来ることがあるが、陳情というより議員詣(笑)で終始していて、話にならない。問題意識を持った現役で働いている若き歯科医師達の生の意見を一度も聞いたことがないと言う。具体的な方法論や解決プランを一緒に考えてくれる人がなかなか来ない。。。。だそうだ。

見えにくい裏で、それなりの人達が動くのは、もはや半世紀前の選挙戦のあり方で、結果、非常に重要な歯科医師議員を見事に落選させてしまった。この総括は、日歯連盟は絶対に行うべきだと考えているが、如何だろうか。もう、俺たちが上手くやるから黙ってみていてくれ、、、、は、通用しないことが明白となったのだ。

私が、日歯連盟の主要メンバーとして、選挙前に国会を縦横無尽に動ければ良かったなぁと思うが、マジで歯がゆい今回の選挙だったのです。まあ、連盟には、保団連だからと嫌がられてるんだろうけどね(笑)。言っときますが、私は反保団連なんで、青森県保険医協会単独で動いていますから。ちなみに次は9月に国会に行こうと思ってます。はい。

ちなみに、関口先生、参議現役としてはいましたが、話の筋としてなのですみません(笑)



7月 04, 2025

順番で言えば次は自分

 5月半ばに脳梗塞で母が倒れた。緊急処置後数週間入院したが半身不随と意識障害の改善の見込みは全くなかった。91歳。自分の部屋に帰りたいと意識がまだあった初期の頃訴えていたので、意識障害からしばらく経つので退院し、自分の部屋に戻り(私の施設)今までとは全く違う完全介護の環境を整えた。ケアマネ曰く、口腔ケアをこれだけ徹底すると、経管栄養の意識が殆ど無いかたもここまで血色のいい状況まで戻るんですね、凄いです。と言ってくれた。かなり進んだ意識障害も時折目を開け、つけているテレビなどを見ているようなそうでないような,,それでもかなりの奇跡だと思っていた。周囲のスタッフの献身的サポートも素晴らしいと思った。

人の死は突然やってくる。昼までは通常だったが、夕方から高度に発熱し、夜には突然の呼吸停止。私は間に合わなかった。倒れる前日まで一人で買い物に出かけていたくらい元気だったのだが、あれよあれよと言うまの出来事のようで、涙腺が全く反応しない。しかし、心は平穏ではない。いきなり自分が幼かったときの思い出がめまぐるしく頭を回り始めた。



とても幼い私は母の背にいた。山に沈む夕日が静かに落ちていき、黒い稜線を境に美しいオレンジ色と青が混じった空が広がっている。母は子守歌を歌っていた。

また、あるとき母は私の小学校の時の弁当で、白米がアルマイトの弁当箱一杯に詰まっていて、その上に筋子だけが一腹。凄かった。忙しかったのだろう。教師として普通に働いていたのだから。また、あるとき私の運動会の弁当を作って応援にきてくれた。様々なおかずが美味しくてたまらなかった。一体いつ作っていたのだろうなど思ってはいなかったのだが。

父の思い出より、母の思い出が少しだけ甘酸っぱいのは優しさの種類が違うからだろうかと思ったりする。

予備校の時、寮に母から電話がかかってきた。池袋にいたものだから、駅構内での刃傷沙汰がニュースになっていたときだった。電話に出ると、、「あんたじゃないよね」「、、、、、、、、」あまりに唐突で言葉が出なかった。瞬間笑いがこみ上げてきた。これが母の愛情の表し方だったのだ。色々なことで心配をする。私が60になっても心配ばかりする。小さな心配の種を見つけてはそれに備えろと心配をする。こういう愛もあるのだ。

十数年前に父と母が老人ホームを探し始めた。父が脳梗塞になり母が介護が大変で施設に入りたいと、あちこちの施設を見学しては、あそこはこういう所がダメだとかあそこはこれはとても良いがアレがダメとか、なかなかいい環境が見つかれない話を聞いて、私が密かに考えていた老人施設開業を打ち明けてみた。猛反対された。何を今更また苦労を背負うのだという事だった。しかし、母の意見を十分に反映させれば素晴らしい施設が出来上がるのではないかと、私は自分にGOサインを出したのだった。施設が完成し父母が入居して父は4年目、母は丁度十年目の鬼籍入りだった。

梗塞で搬送され、当初は話すことも自分で食事を取ることも出来ていたが、徐々に病魔は広がり2週間ほどすると、意識レベルはかなり低下してきた。夜中の2時頃だっただろうか。左肩をトントンと叩かれて身が覚めた。怖くは無かったが一人で寝ているので何事かと思い起き上がったが何事もなかった。翌日母の見舞いに行くと意識レベルは殆ど無くその後回復することはなかったので、後から考えてみるとあれが最後の知らせだったのかなと思っている。

喪主として全ての仏事を終わらせても、悲しみは湧いてこない。暫くすると湧き上がってくるのだろう。故人の意思で、完全な家族葬として執り行った。皆知っている親戚のみの葬儀は最高に素晴らしい葬儀となった。生きている人のプライドのための故人の葬儀を望んでいなかった母なのである。

今更ながらなのだが、「無常は時を選ばない」、、釈迦の言葉に熱くなった。