5月 04, 2025

久し振りだな。。。

 GWを利用して、函館と言うか、七飯町というか、大沼公園の中のエプイというホテルに来た。ここに来た理由は部屋に温泉露天風呂がついている、ただそれだけの理由だ。あいにく天気が悪かったので、朝早くから夜遅くまで幾度となく風呂に入るという贅沢三昧を(笑)。

やや大きめの部屋付き浴槽の湯に浸かりながら、久し振りにマインドフルネスにトライ。

聞こえてくるのは鳥のさえずりと掛け流しのお湯の音のみ。無心になりながら呼吸のみを意識して目の焦点をどこかに合わせず宇宙の果てを見る。ふと、イワノフの小説が頭をもたげるが振り切る。ただただぼーっとして時間をやり過ごす難しさに直面する。そう、これこそが忘れていた本当の時間という「時」の流れかもしれない。達観した境地には至れないが、何か、運だとかカネだとか生き様だとか力だとか堅持だとか煩雑だとか混沌だとか、全て己の心の雑音でしか無く、今自分が元気に生きていることだけが真実だと、誰にも頼らず感じてくるのだ。言い換えれば、世の中のコンサルと言われる人達はその雑音を整理する怪しい仕事だなとふと思う。

車を借りて出かけた先、恵山灯台から遠くを見ると、時代を間違えたかの帆船が見えた。海はひたすら荒れていた。目を離した隙にもう一度探すが見つからない。幻?夢?風はかなり強い。

その後、素敵な灯台を後にあえて恵山から鉄山方面に山中を走る。昔の開拓の痕跡が消えかけた集落に、100年前の思いの痕跡をたどる。キタキツネが子ギツネと道を渡る。流れる温川は人の手が殆ど入らない昔の川のまま、イギリスのコッヅウェルを思わせる素敵な川の両岸になぜかひたすら懐かしい思いが、、なぜだろう。魂の記憶だとこういうこの感覚はいつも大切にしている。ちなみに私の前世はギリシャのイオス島の犬だったが、その前は中国の鉄道作業員、時間軸が前後しているけれど列車にはねられて死んだらしい(笑)。犬の時は老衰(笑)。そんなものだと思えば今の「欲」とはなんだろうなと思う。人が生きて死ぬのは当たり前だから、これからどうなるかでは無くLet it beなのだと今更だ。小賢しい過去の自分を反省するのも今だからだ。


帰るなり部屋の温泉風呂の贅沢。入る出る入る出るの至福也。大沼は鏡のようになっていて雨上がりのコントラストが羊蹄山を引き立たせているよう。昔、カヌー乗りだった(自称)私としては、この湖面に静かに流すカナディアンカヌーはまことに持って美しいに違いないと心に思った。

明日から日常に戻るが、この平凡と見えるいつもの日常を維持することの難しさと美しさに改めて感謝するとともに、だからこそ幸せなのだと感じる日常が、如何に素敵な毎日なのか忘れてはいけないだろう。旅日記としては各地の詳細な報告が出来ない稚拙さがあるけれど(笑)、思いは感じてくれるんじゃないかと邪推する楽しさかな(笑)。





5月 01, 2025

日本亡国論

西尾先生が亡くなってからまだ1年も経ってはいないが、今だに読み返すと西尾先生の論がまさしく正確に的を得たものであることがひしひしと伝わってくる。この論に及ぶ論客は私の知る限りでは島田洋一先生しか思い浮かばない寂しい現実である。いつも言うが、私は生粋の自民党員だったのだ。

さて、、、、

 「人口減少という国民的不安を口実にして、世界各国の移民導入のおぞましい失敗例を見て見ぬふりをし、2018年12月8日未明にあっという間に国会で可決成立された出入国管理法の改正(事実上の移民国家宣言)を私は横目に見て、あまりに急だったな、とため息をもらした。言論人としては手の打ちようがない素早さだった。」(西尾幹二)

既に5年以上が経過し、安倍氏射殺事件以来、岸田-石破の国家崩壊ラインは今までにも増して自国を蔑ろにし続けている。まさしく自民党崩壊ラインでもある。私は後で気がついたが、移民政策だけで無く政府与党の決議事項は、例えばEV車助成金など、国産のEV車のみならず海外製のEV車まで助成金を出す始末。我が国の国民の税金が他国の一企業の利益になっている事実を国民の多くはわからないでいるかもしれない。このロジックが移民政策にも繋がる事実なのだ。

ある自治体の骨のある職員の言葉

「牛馬ではなく人間を入れるんですよ。入ったが最後、その人の一生の面倒を日本国家がみるんですよ。外国人を今雇った企業が利益を得ても、健康保険、年金、住宅費、子供の教育費、ときに増加する犯罪への対応はみんな自治体に降りかかってくる。私は絶対反対だ」


『日本の希望』西尾幹二著

外国人は自分の欲望に忠実で、先進国に入ってくるや否や徹底的にそれを利用し、そこで出世し、成功を収めようとする。何代かけてもである。当然、日本人社会とぶつかるが、そのために徒党を組むので、外国人同士──例えば中国人とベトナム人との間──の争いが、日本社会に別の新たな民族問題を引き起こす。その争いに日本の警察は恐らく無力である。 日本国民は被害者でありながら、国際的には一貫して加害者に位置づけられ、自由に自己弁明できない。一般に移民問題はタブーに覆われ、ものが言えなくなるのが一番厄介な点で、すでにして日本のマスメディアの独特な「沈黙」は始まっている。


本気で私は考えてみるが、近年の外国人受け入れ政策には法的不備が目立ち、背景には2008年に自民党が提案した「移民一千万人受け入れ」構想がある。当時から「労働力として外国人を受け入れたい」という目的は変わっていないが、近年は「人口減少の対策」や「日本文化の寛容性」を前面に出すようになった。勿論八戸のような地方都市でも役人の挙動から実感している。

しかし実際は、日本文化の「寛容さ」は表面的で、実際には異文化を本当に受け入れることが難しい。キリスト教、イスラム教、儒教などの強い価値観をもつ宗教や思想は日本に根付いておらず、「多文化共生社会」は現実的でない。すでにモスクや外国人街、朝鮮学校などが日本各地に存在しており、「寛容」にも限界がある。外国人受け入れが進むと、最初の計画を大きく超える人数になるのは欧州の例でも明らかで、日本語や日本文化の喪失につながる恐れがある。歴史上、多くの民族が政策の失敗で消滅してきたことを忘れてはならない。

これこそ、血を流さない近代戦争なのだ。