つい最近、私はかねてよりの尊い友人を失った。彼とは思想信念心情がやや異なっていたため、彼の琴線に触れる「核」という問題で衝突した。特に医療関係者ならこの問題は命に関わる重大な問題だと言うことで彼はエキサイトした。私はそうは思っていないので反論した。命に関わる問題ではなく、どう死ぬのかという問題なのではないかと提議したつもりだが受け入れてはもらえなかった。彼というわけではないが、特に左系洗脳されている私の周囲の「核」の議論は議論にならないのが特徴だ。
4万年程前、人類の亜種で高度な技術を持っていたネアンデルタール人はホモサピエンスによって駆逐された。ホモサピエンスは生き残りの最終決断として「戦闘」を選択する。しかしネアンデルタール人は穏やかな平和主義であったため地球上から消えてしまった経緯がある。ホモサピエンスの進化と発展は戦いの歴史でもある。戦闘のない歴史は世界の何処を探しても見つからない。そんなホモサピエンスは結果としてヒエラルキーの頂点に立っている。これは悪なのではなくネアンデルタール人が滅亡したときにバトンを渡されたサンカーラをDNAに持つ宿命であり、だからこそアニッチャという考えが世を救い「我」が解脱すると考えられたのではないか。最終兵器としての「核」は解脱前のカルマであり誰もなし得てはいない。地球が滅亡するほどの核兵器が想像を絶する平和を維持すると信じているからこそ、ホモサピエンスはその思考を停止させない。仮に石と斧の世界大戦が遠い未来に起きたとしてもまた同じ事がはるか未来に繰り返される必然を理解して、医療人なら現代の病としての現症に望むべきなのではないだろうか。「核」が問題なのではない。それを使用するホモサピエンスが悪でもない。最重要なのは「システム」なのだ。
では、核兵器を考案した天才物理学者の責任はと言う問いが、彼の伝記として正義の核ロジックの中に清書として出てくる。猛烈な反省が様々な書物美しく表現されているのは、いいとこ取りの伝記のパターンであり、回顧録も同様だと思われる。彼の周りの人々の過去の記録が僅かながら原文で閲覧出来る。美しい伝記ではない。アスペルガーと思われる興味のない勉学は'まるでダメという苦悩の幼少期のリアルな周囲の困惑だけではなく、後年、天才たるが故の神になりたかった妄想などが彼の理論物理のファウンデーションになっていることがよくわかる。美しいと賞賛される彼の手記の中で「Ich wollte wirklich, dass Deutschland gewinnt.」と言う言葉が紹介されている。この、心底ドイツに勝ってほしかったという本音は、何よりも優先されるはずなのに、彼は後にそれが大きな過ちだったと言う。兵器がほしかった米国がそうさせたのではないかと私は個人的に疑っている。ユダヤ亡命のように渡米しているのだからこれは事実だろうか? そこが彼の素晴らしさと言うことでクローズアップされる。否。そうではない。勝ってほしいという部分こそが、天才の社会に対する狭い視野の中でクローズアップされる部分なのだ。そして前述したように、ホモサピエンスの病的天才が発するカルマなのだ。これこそが真の考察なのではないだろうか。
ウクライナでちらつかせるロシアの核兵器は、使用されたら最後人類の終焉だろう。ホモサピエンスの終焉は核かバイラス。原子の向こうに宇宙があると信じていた天才学者の理論はあながちホモサピエンスの終焉も見えていたのかもしれない。宇宙に充満するエネルギーを手元の兵器として使用するプランが、黄色人種だった我々の元に降り注いだ。実行は天才科学者でもない。トルーマンでもない。ホモサピエンスが作り上げた(社会の差別も含めた)システムなのだと思う。その悲惨さを語り継ぐことや反省や後悔や憎しみや様々な思いが、逆に「核」のエネルギーとなってしまっていることに私たちは気がつくべきだろう。
アレルギーのような否定の先にある未来は全て暗いと信じる。咀嚼して飲み込み肯定しながら暗部を模索しそれも真実と留め置きシステムを構築することで、未来はより開かれると信じている。今更だが、失った尊い友を懐柔させる様な愚かな事は思わない。これが現実として受け止める。