11月 18, 2019

突然の父の死に寄り添う

人の死は唐突にやってくる。
11月11日午後、日赤病院の呼吸器内科の部長から、昨日夕方入院した父の容態に関して説明があると言うことで呼ばれた。画像診断の結果、肺の大部分が機能していないほどの肺炎になっており、長くとも数日しかもたないのではないかと告知された。
それこそ数日前まで、多少疲労感を訴えてはいたが元気に車椅子生活を送っていた。父は冠動脈造影検査後その場の日赤病院で脳梗塞で倒れ右半身不随の生活を10年続けていた。その時の処置の手際がいかがだったか等、今は言いますまい。
しかしそれなりに元気で、昨年まで車も運転していた。私たち家族もその障害の程度になれてしまっていて、元気だしねということで、多少の発熱や倦怠感も健常者と同じように捉えていた節もある。延命は本人が生前強く否定していたこともあり、いざその時になると涙が止まらなかった。

12日の明け方、就寝している私の枕元を誰かが数回叩いた。強く叩いた。驚いて目を覚まし起き上がったが、寝室はしんと静まりかえっている。何だろうと思いまた寝たのだが、次に目を覚ましたのは入院先からの緊急の電話であり、家族は集まってほしいとの内容だった。横浜や千葉に居る妹や孫にすぐさま連絡をして、また、父の兄弟にも電話をした。永眠したのはその数時間後だった。横浜方面からのグループは間に合わなかった。あまりにも早い急な展開に、家族親戚一同言葉を失い涙だけが流れた。

父の人生はどうだったんだろうと、今更ながらに思うが、多くの教え子に慕われた教師生活三十数年、そして多くの従業員に慕われた当院事務長として三十数年、決して不幸ではなかったと息子ながらに考えてしまう。
私にとっての父の思い出を考えた。鮮明に思い出すのは昭和39年東京オリンピックに父と向かい、チャフラフスカの演技を見た。しかしそれよりも嬉しかったのは、開業間もない新幹線の前で写真を撮り、一緒に乗ったことだろうか。ほんのわずか熱海までの往復だった。確かに思い起こせば色々なところに連れて行ってもらった。大阪万博では、日本海回り普通列車で家族で京都まで行き、非常に親しくさせていただいていた柄本先生のご親戚の家に泊まらせていただき、月の石を見に行った。
ある日父はキノコを採りに行くと言って車で出かけ八甲田山中で遭難しかけたことがある。深夜になっても帰らぬ父を皆で心配して警察まで出動したことがある。朝になり這々の体で帰宅した父を何故か私はじっと眺めていた。
亡くなってからと言うのもおかしな話だが、忘れていたことを次々思い出す。それこそ供養となれば良い。

通夜、葬儀ともに、本当に親しかった人達が涙してもらった。火葬の前日湯棺していただいた。髪を洗い、体を綺麗に洗い、温かいお風呂に浸かって、着替えをし、生前一番のお気に入りのシャツと背広を着てもらい、本当に穏やかな優しい笑顔でお送りした。

心傷として一番辛いのは母だが、気丈に振る舞うその姿もまた息子とすればやはり心は痛い。しかし、父の死に直面して人の生命の尊さは物質や時間とも違う価値があることを実感している。父の親しい友人達のその多くはすでに鬼籍入りしている。向こうの世界があるのならさぞかし楽しいだろう。
そんなことを考えて、ふと今更だが、自分の気持ちが少し楽になるような気がした。
今まで本当にご苦労様。息子はこんな人生をあなたからきちんと譲り受けてもう少し生きていきます。ありがとうございました。
安らかに旅立ってください。




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