7月 06, 2018

六ヶ所村と風と今

先般、所用で10年ぶりくらいだろうか、六ヶ所村を訪れた。私の知らなかったその変貌ぶりに、ある意味嬉しくなった。


40年程前、車の免許を取ったばかりの頃、夏、横須賀から帰省したついでに父親の車を借り八戸から海沿いを北上してみた。
青森県の太平洋側は基本的に岩手のリアス式海岸とは全く異なり、果てしなく砂浜が尻屋崎まで続いていた。余談だが、80キロにも及ぶ砂浜の途中には、鳥取以上の規模を誇る猿ヶ森砂丘があるのだけれど、米軍及び防衛省管轄の射爆場になっているため立ち入りは出来ない。
そして道すがら、つげ義春が描くがごとくの日本の寒村の景色が続いた。


六ヶ所村を通過した際、むつ小河原開発の残骸をあちこちで見かけた。開発に伴う廃墟は何かもの悲しく、人間のエゴの残骸のようでもあった。

1968年、当時の通産省は太平洋ベルト地帯に集中していた重化学工業産業を、関東東海の公害や過密問題を解決するために、下北半島整備構想試案という国家プロジェクトを発表。石油化学コンビナートや製鉄所を主体とする「世界最大の開発事業」であった。
1970年、当時小学5年生の私達は、野外授業の一環として担任に連れられ3階建てに新築されたばかりの七戸小学校屋上に来た。
晴れたその日、遠くに横浜町の烏帽子岳が見え、なだらかな丘陵が果てなく続いていたのを覚えている。そして担任は言った。

「君たちが高校生ぐらいなる頃、ここからの景色は煙突や大きな建物が無数に見える、日本を支える工業の一大地域となるから、この景色をちゃんと覚えておくように」

担任の言っている本当の意味が何なのか、小学生の我々にはわかるわけはなかった。そして、それがどういうことなのかすら理解は出来なかった。その後、高校生になった私は、オイルショックで全ての計画が頓挫していることなど気にもとめていなかった。

1980後半、荒野の村は原子力エネルギー問題で真っ二つに割れ傷だらけになる。そこに色々な人達の正義があふれ、肝心の地元住民はほったらかし。その状況を聞き、核という問題を真剣に考えた。闇雲に反対している人達、未来を考えて反対している人達、未来のために賛成している人達、目先のことで賛成している人達、みんな正義なのである。私が、とある正義に同調したとは言え、しかし、これは違うなと思った瞬間があった。

一番嫌悪したのは、地元に暮らすでもない、極寒の地吹雪と貧しさも知らない都会のインテリがきれい事ばかりを並べ、そこに全国から信者さん達が集まって地元抜きで気勢を上げる光景にうんざりしたことだ。そして彼らには「日当」まで出ていた。何か、心から最低だと思った。

そこで、日陰から見つめる必要もあると感じ、地元に住む人の見えない事実を探してみた。そこに見えてきたのは、開発に絡む金と群がる人。が、しかし、そこにあるのは貪欲ではなく「人並みの生活」というごくありふれた地元の希望が見え隠れする。
それを否定する権利は誰にもない。六カ所開発反対左翼は「あなた方はだまされている」と説得する。同調する地元住民とそうではない住民。何かおかしい。事実「一杯のインスタントラーメンを兄弟3人で一日一食」。この現実をどうするかが先なのだと言われたら、誰が否定出るのだろう。私が政治家ならなんとかしたいと奔走するだろう。
そういうことを知っていた私だから、今回久しぶりに訪れたこの村でその変貌ぶりに驚きそしてなぜか嬉しくなった。

未来からくすねた汚れた金だと言う人もいる。その人達にすれば核燃関係の金は全てそうなのだろう。かつて、吹きすさぶ風を避けるように板張りの粗末な家で、何かに必死にしがみついて生きてきた方々に、あまりにも優しさのないそしてむごい言い方を反対派の人達は平気で口にしている。
もちろん推進派もかつては非道の限りを尽くしていたと聞く。親兄弟を喧嘩させ、貧しいながらも幸福を感じていた人々を引き裂き、国家プロジェクトに群がる亡者が全国から押し寄せてきた。村が傷だらけになった。
要は、これらの大きすぎる波に飲み込まれ、酷い傷を負いながら完全に引き裂かれた村だと言うことだけが残ったようだった。

今、まるで、ヨーロッパの片田舎の小ささなキレイな町を連想した通りを抜け、人が行き交う姿を遠目に見ながら、なんてありがたい話ではないかと、やや、時間を忘れたのだった。大きなリスクの代償なのだからと偉そうに言う権利を私は持ち合わせてはいない。

スタンフォード型”YES AND”でますます発展してほしいものだ。






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