この一週間、怒濤の忙しさで、テレビは半沢直樹しか見てない(笑)なんてね。ブログ更新した翌日は青森詣でで後半会議があり、この国の社会保障制度のパラドックスを目の当たりにして疑問を持つことの重要性を改めて実感したのだけれど、此処でふとイマヌエル・カントを思い出し、帰ってから書庫をかき混ぜると出て来た。「純粋理性批判」。ご存じの方も多かろう。哲学に興味を持ち始めた10代後半、認識と非認識に疑問を呈した若き日(笑)神の存在証明が可能か否かのヒントを、今は新宿2丁目で静かに過ごす級友と夜な夜な語り合った事を思い出す。
人間の5感を主体として対象を把握する「認識」する事でワシらは一定の世界観を得ているわけだけれど、しかし、ワシらは何を知りうるかが問題となる。そう、認識論という哲学が生まれるわけだ。此処にドイツの哲学者カントが登場する。かつて科学は哲学でありこの世の基本的な概念や原理方法に疑問を持ちそれを解き明かそうとすること自体が哲学であるわけで、要は普段当たり前に思っていることに疑問を持つこと・・営みの全てが哲学になっている。
哲学には2つの基本課題がある。1つは「存在論」・・何が存在するのか。そしてもう1つは「認識論」・・ワシらは何を知りうるのかと言う問い。人間が得られる知識、これは認識の起源を感覚による経験に求めるもので、対象を知覚して初めて認識が得られるという「経験主義」。これに対してその起源を「理性」に求める「合理主義」に大別されるわけですな。理性とは人が生まれながらにして備わっているとされる知的能力、つまり合理的に物事を認識する能力だ。
と言う事は、合理主義では理性が重要だから認識のための感覚的経験は不必要とされる。しかし、理性は曖昧だから合理主義は独断で物事を決めてしまうと言う批判を浴びてしまう。かといって経験主義にも経験しなければ認識できないという落とし穴があるため、経験に裏付けされないものにたいしては「懐疑論」という結末を迎えることになる。懐疑論的に言えば、ワシらが長い間信じていたモノを簡単に壊してしまう危険性があるわけで、そこで懐疑論によって破壊された「形而上学」が登場するというわけだね。
ワシはこのブログで幾度となく提起した「形而上学」は、言い換えればワシらが経験できることを超えた「超越的存在」について問う学問であるわけだが、しかし、ワシらが経験を超えたものについて全く認識を保つことが出来ないとしたら形而上学は意味のない物になってしまう。そこにカントの「純粋理性批判」があり、形而上を学問として再考させたわけだ。
ワシらの歯科を取り巻く環境もまたカントの「因果律」であると気が付きさえすれば、若き医師達の科学への追求は無駄なものでは無くなるのだけれど、例えば担当官僚の立場ならワシらが想像する「必然的な統合関係」のみだとする、いわゆる科学自体を否定する立場の人と闘わねばならないことに自ずと気が付くはずなのだが・・・・。
民度の最低な支那朝鮮という文化もまた、この理論に沿って考えて見るに、形而上を哲学要素を大いに保つことの宗教でカバーしてきた文化との大きな違いが見えてきたりして。
眉をひそめてここまで読んでくれた諸氏、ワシら兄ちゃんと共に訴えるエビデンスとエクスペアリアンス、このバランスこそ未来を開く鍵なのだよ。えへん。
・・・・酔ってるかも(笑)。・・・・
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