5月 05, 2016

喧噪の改札から切り取った一コマの時間

ここ数日、東京で散策をして感じるけれど、三十数年前東京に暮らしていた頃と、明らかに人の数が違うと感じる。元々の東京の人はどれくらいいるんだろうか。。

帰りの飛行機に乗るために、ホテルから浜松町に。エレベーターが開いた。やっと二人は入れるくらいのスペースに無理矢理荷物ごと入り込んで、ふと横を見ると盲目の美しい少女。付きそいだろうか、春らしいワンピースを着た同じく少女が二人。エレベーターが到着し、周囲の人は分かっているのか分からないのかお構いなしにエレベーターから出て行く。付きそいの二人のスーツケースと盲目の少女を気遣いながらゆっくりとエレベーターから出るのを確認して、それから私は出た。
雑踏の流れの中にあっという間に吸い込まれていく少女達。しかし彼女たちは改札の前で立ち止まった。なんと付きそいだと思っていたもう一人の少女も、白い杖を持っていた。3人のウチ2人が盲目なのだと知ったとき、その驚きは軽い感動に替わっていたかもしれない。

何かを一心に話した後、改札の中に入ったのは健常であろう少女一人であり、後の二人は見送りに来ただけなのだと分かった。喧噪の中で何を話しているかは私には到底聞こえない。改札の中の彼女が何かを大声で話しながら手を振る。外の二人も手を振る。しかし、激流のような人の往来に流されてしまう彼女。二人はあらぬ方に手を振っていた。彼女たちに彼女が見えているかどうかはさして大切なことでもないかもしれないとふと思う。見送りの美しい少女が流れる涙をふいたように見えた。その景色があまりにも美しく、私は一度だけ振り返った。

このほんの数分の出来事を目の当たりにして、とてつもなく色々な物語が辛辣な物語が勝手にアタマを駆け巡るのだけれど、何かどれもまがい物の匂いがしすぎて、彼女たちに申し訳ない気持ちで一杯になる。ただ一つ、彼女たちがこの大都会の中で生きていくと言うことが、私の生きていくことの難しさや困難さには及びも付かないくらい大変なことであると言うことは、そうだろうという勝手な健常者のエゴで、これこそが実は彼女たちを苦しめる最大の要因なのかなと思ったりする。手を添え助けることが当たり前なのにそう振る舞って見えていない以上、そうすることが彼女たちのプライドを傷つけると思い込んでいる。
人一倍苦しい思いで生きているに違いないと、勝手に考えている。そうかもしれないけれど、駅まで来てエレベーターに乗り改札で見送り別れを告げ帰路につく。
そんな当たり前に何故心打たれるのか。

答えは簡単なんだ。そうなったことがないからに他ならない。だから必至に思っている。今この瞬間も、どこかの空の下で、比較的楽しく何とか頑張っているに違いない。と、そう、自分に言い聞かせた東京見物の最後。





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