2月 28, 2013

補綴のドグマ 2回目

昨晩はHERZ会定例会でした。先月に引き続き東北大学の菅野先生をお迎えして「補綴のドグマ」の2回目の講演をして頂きました。1回目に引き続き40名以上が集まり非常に盛況でした。今回はインプラントのドグマに着目してのお話でしたが、ま、元OJの会長職を勤めたなっちゃんあたりは、懇親会では質問の嵐でしたな。とても良いことです。

全てにエビデンスがあるわけではないことは皆よく分かっているのです。あるいは、十分なエビデンスを獲得するに至る論文が非常に少ないことも分かっているのです。
だけど、ワシはエビデンスを構築する上での「統計リテラシーの無いもの」が、最近どうやらカモられる時代になってきたなとはうすうす感づいていたわけで、氏の発信する新たな視点はこの時代の必然であるかもしれないなと少し考えた訳ですね。

パラダイムシフトを何度も経験した超老舗の歯科医師達にとっては、何が真実かはさして重要ではなく、歴史の必然の中で如何に患者さんに余裕を持って全力で向かい合い幸福を分かち合えるかという哲学命題に似た診療哲学が、果たしてエビデンスの中にあるのかと言えばそれはないわけです。

ところが、遙か過去から気の遠くなるような数の事象に対する帰納と演繹の繰り返しは、いわゆる歴史の「経験」で有り経験から確固たる理論が生まれてきたことに間違いは無いわけです。果たしてそれが自分の臨床に当てはまるかというと、時間軸では到底及びもしないものの、そのベクトル方向はまさしく無限のトライアンドエラーと似た帰納的演繹科学でありエビデンスが無くとも導かれる一つの超理論であったりすることを、エビデンスから否定する事はあまり意味は無い事だなとも感じるのです。

が、限りあるエビデンスとは言え、それで追い打ちを掛けるように我が身を理論武装することは、帰納法の結果として導かれた理論を元に構築された演繹科学の相乗効果すら期待できる可能性もあると言うこともまた、ああ、必然ではないかと肩の荷が下りたりもするわけです。
いたずらに緊張しながら取り組む臨床像があるとしたら、もうそこまで緊張するエビデンスがないと聞けば、後は経験がものを言う科学って、ある意味理想的じゃないだろうかと。しかし忘れてはいけないのは、「何のために自分はそこに居るのか」という命題であると言うことでしょう。

今回のHERZ会、遠くは千葉から新幹線でわざわざしかも夜に向けての参加や、五所川原からのご参加、皆さん有意義な講演会、本当にご苦労様でした。主宰としても嬉しい限りのHERZ会でございました。

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