非常に天候に恵まれた関東地方を後にして帰路につきました。いつものように、東京の町を歩きながら散策した2日間でした。地方都市ではすでに全く出会うことの無い昭和の町並みがまともに残っているのもまた東京の魅力だったりします。
こちらにスナップがありますが、オーバースペック4800万画素のSIGMAsd1で、しかもかぶり気味で撮影してありますので注意が必要です(笑)。
時間があるときに立ち寄る靖国は、憲法記念日を避けるようにして本日5日こどもの日に行くというところが、ちょいとおしゃれ(笑)。
初めて靖国を訪れた過去に比べて、随分と様変わりした此処は、何か新しい意識が充満しています。ワシの目の前にいる青年は耳ピー舌ピーのオンパレード。横にいるやはりパンクな友人に「なあ、おまいりするときどうするんだっけ?なんかいおじぎすんだっけ?何回てぇたたくんだっけ?」
かつて此処では、それなりの経験を積んだ方々のかなり神聖な気持ちが凛として伝わってくるような所だったのですが、これも時代の変化なのか若いカップルやこのようなパンクな兄ちゃん達も沢山居るのに驚いた訳です。
お参りを済ませ遊就館へ。大東亜戦争70年展が特別企画で開催されておりまして、そちらも見学にと向かいました。何度来ても身が引き締まります。この英霊のおかげで今の自分達があるんだと言う当たり前の事を、何故今までこんなに粗末にしてきたのか不思議でなりません。永遠のゼロで感涙したついこの間のせいもあって、特攻隊員達の遺書や父母に宛てた手紙を読むと目頭が熱くなるのです。某朝日新聞はかつてこれらは洗脳の結果のテロリズムでは無いかと糾弾したことがありました。百田氏の小説にもそんなジャーナリストが登場しますね。一般人を巻き込む宗教的なテロと同じにする神経がどうしても理解できない、、というか、どういう精神構造でそういうことを平気で言うのかワシには全く理解できません。個人主義も此処まで来ると感情や深い思いと言った人本来の古い大脳皮質からわき出る本能すら否定する怖さに震え上がるのです。
若いカップルが遺書を読みながら涙していました。これとて作られた物だとサヨクは否定するのでしょうが。どう見てもキャバいお姉さんが堪えきれず涙していました。かと思えば、ワシの両親以上の年配の方も涙していました。要は、今のワシらに足りない「何のために誰のためになら命を投げ出す事が出来るのか」という「生きることとはどういうことなのか?」と言い換えることの出来る哲学命題に心が震えるのでしょう。
しかも戦死した彼ら彼女らは、まさしく将来の我が国のためにと言う思いを切々と綴るのです。夫が特攻隊の教官をしていて、教え子達だけを戦地に向かわせるわけにはいかないと自らも志願するが、妻と子がありその資格も無い苦悩する夫を案じて、自分達が足かせになっていると感じた妻は我が子と共に自殺。その気高い精神の妻の遺書を読み、体を震わせ泣く若者に感動するワシです。儚いセンチメンタリズムとは無縁の日本人としてのプライドに心が揺れるのでしょう。もちろん誰だって死にたくは無い。「しかしながら・・・」と事実は小説のように続くのでした。この「しかしながら・・」が何故感動を呼ぶのか、若い彼らが共感するのかが、これからの日本のあり方のキーワードでしょうね。ワンピースが爆発的な人気を呼ぶその背景こそに、靖国を訪れる若者が急増するヒントが隠されていると感じるのはワシだけじゃぁないでしょう。
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