12月 24, 2022

諸行無常、諸法無我、涅槃寂静

 つい最近、私はかねてよりの尊い友人を失った。彼とは思想信念心情がやや異なっていたため、彼の琴線に触れる「核」という問題で衝突した。特に医療関係者ならこの問題は命に関わる重大な問題だと言うことで彼はエキサイトした。私はそうは思っていないので反論した。命に関わる問題ではなく、どう死ぬのかという問題なのではないかと提議したつもりだが受け入れてはもらえなかった。彼というわけではないが、特に左系洗脳されている私の周囲の「核」の議論は議論にならないのが特徴だ。

4万年程前、人類の亜種で高度な技術を持っていたネアンデルタール人はホモサピエンスによって駆逐された。ホモサピエンスは生き残りの最終決断として「戦闘」を選択する。しかしネアンデルタール人は穏やかな平和主義であったため地球上から消えてしまった経緯がある。ホモサピエンスの進化と発展は戦いの歴史でもある。戦闘のない歴史は世界の何処を探しても見つからない。そんなホモサピエンスは結果としてヒエラルキーの頂点に立っている。これは悪なのではなくネアンデルタール人が滅亡したときにバトンを渡されたサンカーラをDNAに持つ宿命であり、だからこそアニッチャという考えが世を救い「我」が解脱すると考えられたのではないか。最終兵器としての「核」は解脱前のカルマであり誰もなし得てはいない。地球が滅亡するほどの核兵器が想像を絶する平和を維持すると信じているからこそ、ホモサピエンスはその思考を停止させない。仮に石と斧の世界大戦が遠い未来に起きたとしてもまた同じ事がはるか未来に繰り返される必然を理解して、医療人なら現代の病としての現症に望むべきなのではないだろうか。「核」が問題なのではない。それを使用するホモサピエンスが悪でもない。最重要なのは「システム」なのだ。

では、核兵器を考案した天才物理学者の責任はと言う問いが、彼の伝記として正義の核ロジックの中に清書として出てくる。猛烈な反省が様々な書物美しく表現されているのは、いいとこ取りの伝記のパターンであり、回顧録も同様だと思われる。彼の周りの人々の過去の記録が僅かながら原文で閲覧出来る。美しい伝記ではない。アスペルガーと思われる興味のない勉学は'まるでダメという苦悩の幼少期のリアルな周囲の困惑だけではなく、後年、天才たるが故の神になりたかった妄想などが彼の理論物理のファウンデーションになっていることがよくわかる。美しいと賞賛される彼の手記の中で「Ich wollte wirklich, dass Deutschland gewinnt.」と言う言葉が紹介されている。この、心底ドイツに勝ってほしかったという本音は、何よりも優先されるはずなのに、彼は後にそれが大きな過ちだったと言う。兵器がほしかった米国がそうさせたのではないかと私は個人的に疑っている。ユダヤ亡命のように渡米しているのだからこれは事実だろうか? そこが彼の素晴らしさと言うことでクローズアップされる。否。そうではない。勝ってほしいという部分こそが、天才の社会に対する狭い視野の中でクローズアップされる部分なのだ。そして前述したように、ホモサピエンスの病的天才が発するカルマなのだ。これこそが真の考察なのではないだろうか。

ウクライナでちらつかせるロシアの核兵器は、使用されたら最後人類の終焉だろう。ホモサピエンスの終焉は核かバイラス。原子の向こうに宇宙があると信じていた天才学者の理論はあながちホモサピエンスの終焉も見えていたのかもしれない。宇宙に充満するエネルギーを手元の兵器として使用するプランが、黄色人種だった我々の元に降り注いだ。実行は天才科学者でもない。トルーマンでもない。ホモサピエンスが作り上げた(社会の差別も含めた)システムなのだと思う。その悲惨さを語り継ぐことや反省や後悔や憎しみや様々な思いが、逆に「核」のエネルギーとなってしまっていることに私たちは気がつくべきだろう。

アレルギーのような否定の先にある未来は全て暗いと信じる。咀嚼して飲み込み肯定しながら暗部を模索しそれも真実と留め置きシステムを構築することで、未来はより開かれると信じている。今更だが、失った尊い友を懐柔させる様な愚かな事は思わない。これが現実として受け止める。



12月 10, 2022

シリーズ夢の話 第4話 最終回

 今まで夢の話をしてきたが、これが最後。

ちょっと不思議な夢の話が現実に。2004年秋、津波の悪夢で目が覚めた。津波の場所は見たこともない椰子の木が茂った海岸線。遠くの海が盛り上がりそれが徐々に海岸に押し寄せ、砂浜にいた人々が蟻の子を散らすように逃げ惑う様子だった。一体ここは何処なんだろうと考えてもみたが、むしろ夢占いで津波の夢とは何なんだろうと色々調べるが、今ほどネット環境が発達しているわけでもなく、ちょっとした不思議本ではスクラップアンドビルドを潜在意識が夢を見させたのだという解説。妻に話すと「変な夢見て飲み過ぎじゃないの?お酒に溺れる夢じゃないの?」と。いや、夢占いの話は考えてもいなかったのでただの怖い夢としてノートに書き留めておいた記憶がある。12月スマトラ沖大地震での大津波のニュースが入ってきた。

2011年2月末。年度末も押し迫り慌ただしい毎日を送っていたある夜、地震の夢を見た。2階の研修室の天井が崩れ落ち、幸い人もいなかったせいかけが人もいない。翌日事務局に、「地震保険って入っていたっけ?」と問うと「いえ、火災保険の書き換えの時入らずにそのままになっていました、すみません」という回答。私は虫の知らせを信じるわけではないが「すぐ入ろうよ」と言うことで保険屋を呼び3月1日から地震保険に加入した。やはり妻にその事を話したら、良い機会だからちゃんと入っておきましょうと。

東日本大震災は保険加入の直後、3月11日におきた。惨状は皆さんの知っている通りだ。

研修室の天井が落ち、診療室は崩壊は免れたが、数日の休診は余儀なくされた。停電で暖が取れず、石油ストーブを引っ張り出しやかんをかけて、フライパンで冷凍庫の物を研修医の先生方とひたすら食っていた記憶がある。

地震保険が給付された後、保険屋さんが「凄いタイミングでしたね」というので。実は夢見たんだよと経緯を話すと目を丸くして驚く。「先生、次に地震の夢見たときは真っ先に教えてください!」と頼まれた。そりゃそうだ。

私は予言者でもなければ、予知者でもない。しかし、こういうことが時々あると、にわかには偶然だろうとは思えないことも事実だ。地中海の犬の時代から数百年。最近は年のせいか不思議な夢を見ることはなくなってきている。出来るなら、自分の最期を夢で確認したいと思うのだが。人様に迷惑をかけずに静かに末期を迎えたいと言う希望があるのだから。


(コラム)

一度、首をはねられた夢を見たことがある。まな板のような所に後ろ手で縛られ頭を乗せられ私は兜をかぶっている。「最後に言い残したいことはあるか?」と言われ「いや、特にない。」と答えた直後、首をはねられ、その後数十秒廻りの景色が見えていた。痛みはなかった。目の周囲から暗闇が迫り、目の前に雪のような物が降ってきたと思ったらそこで意識が飛び、目が覚めた。これも過去の記憶なのかもしれない。


12月 03, 2022

夢の話、続きの続き

私が中学2〜3年の頃から高校1年の頃まで(昭和48〜50年)幼少時のように、毎度同じ夢を見ることが度々あった。当時私は星の撮影に夢中になっており、様々な天体現象を記録していた。余談だが明らかにUFOと思われるものを星の撮影中に何度も見たりした。時に目の前を想像を絶する早さで飛行する物体をカメラに収めライティングライツ現象としてその手の雑誌に投稿したりした。星の写真を撮っているので、おかしな場所の2等星くらいの星を見つけ、これは星図にはない星だが何だろうと見ていると、すーっと移動し消える現象など幾度もあった。


さて、ここからが夢の話。。。そんな星の観察をしているさなか、数名の何者かが暗闇の中から突如現れ、おののく私の近くにやってきて、「君は選ばれた人間なので 我々と一緒に来てほしい」と。昼は勉強もせずバスケットの練習に明け暮れ、晴れていれば夜な夜な星を見に行きそんな毎日の私にはとても刺激的なとんでもない出来事だった。しかし、突然私が消えたら可もなく不可もなく過ごしているとは言えまじめな中学生、事件になるに決まっていると言うとそれは大丈夫だという。君のコピーを置いていくからだという。パーマン状態。何か黒い飛行物体に乗せられ、途轍もない早さで飛行するとあっという間にチベットらしき上空に。いつもそこで夢が覚めた。ある時は、チベット山中の湖に着陸し、数日を操縦訓練で過ごしたこともある。なんなんだこの夢。

高校に何とか進学し、バスケット部に入ろうと思ったら、とんでもなくでかい巨人の集まりで170センチちょいの私はびびって入らなかった。代わりに、射撃部に入り国体を目指した。高校の射撃部は県内には我が1校しかなく、ジュニアとして確実に国体に行けるのだ。射撃場は高校からかなり遠かったので土日のみで、日常の練習は夜遅くまで校内での基礎訓練が主だったが、どのみち遅い時間まで学校にいるので、三沢市から来ている連中の下宿が有り、そこに入り浸っていた。悪いことはしていない。

日暮れも早い晩秋。夜の8時過ぎ頃だっただろうか、腹も張ったことだしと、暗い中を家路に向かい一人でとぼとぼ歩いていると、突然車が私の横に付け「どこまで行くのか?送っていくよ。」と変なイントネーションの日本語で話しかけられた。ノーネクタイだがスーツ姿が二人。右腕をつかまれ、車に乗せようとする。怖くなり必死で抵抗し振り切って全力疾走。追いかけてくる。細い路地を入りススキ密生の原野まで走った。そこまでは追っては来なかった。今なら不審者情報だろうが、当時この話をしても、「どこぞの親父がちょっと可哀想に思って誘ったんじゃないか?」と笑い飛ばされた。私は実感として、アレは日本人ではないと思っている。そして拉致しようとしたのではないかと、後になって考えている。

昭和40年代後半から50年代前半まで、全国各地での北朝鮮による拉致被害が報告されたのは、相当時間が経ってからだ。中学の時の夢は、モディファイドされてるとは言え、まさに高校での恐怖体験と一致すると思うのは私だけなのだろうか。幾度も見た拉致の夢。青森県からも認定はされていないが消息不明の健全な一般人の報告は数多くあるのだ。

続く