金曜日, 7月 27, 2018

訪問診療と障害者就労施設

ある先生から質問を受けた。
障害者に働く場所を提供している就労施設から在宅歯科診療を頼まれた。訪問歯科診療料は算定できないのだろうか?

私は社保担当として「出来ないと思う」と答えた。県の技官の意見もそのようだ。しかし内容を聞くと釈然としない。

障害の程度の差こそあれ、障害者の社会参加はとても重要な事だ。知的障害や精神障害ならなおさらのことだと思う。そういう彼らに就労場所を提供している企業は、まだまだ少ない。問題はそういう場所に出向き歯科診療行為をすると言うことなのだが、歯科医師としてもこれは素晴らしい仕事だと思う。

しかし、このシチュエーションを行政は理解していない可能性がある。障害者達は眠りにつくためだけに家やグループホームに帰り、朝ここに移動してきて一日の大半を就労所で過ごす。私も一度経験があるが、回りのみんなは本当に熱心に、治療している友人の為に色々なお手伝いをする。本当に助かる。これは診療室では出来ない。ましてや心に不安のある彼らは、周りに同じ友達がいるからこそ頑張れるのだ。

外来で通ってこようと思えば通えるため、という考え方のようだ。しかし、現場を知らずにルールを作る怖さとはこういうことかなと思う。個人病院において障害者の引き受けは一定のハードルが有り、そういう専門に行ってくださいと断られるケースがほとんどで、八戸市内でも、働ける障害者でさえ行ける医院はごく少数。ましてや急性症状の場合どうなのだろう。障害者引き受け可能の歯科診療所のリストはあるものの機能はしていない。そして重要な事がもう一つ。いったい誰がそこまで連れて行くのだ???

就労所はほとんどの場合、家族の送迎もしくは企業の小型バス。家族はそのまま仕事に向かうケースがほとんどなので、仕事を休んで歯科に通わせることは可能だとは思えない。
要するに、行政がこの状況を理解していないと言うこと。そして、やはり障害者はどこまで行っても日陰になってしまうと言うこと。

喫緊の課題として、今どうするかが何も解決されていない以上、頼まれれば就労所に出向く歯科医師の気持ちもわかる。そして大変な苦労をしているにもかかわらず、それに関わる費用は外来と何も変わらない。ましてや患者から車馬賃すら出るわけではない。

どうだろう。この状況で積極的に手を上げ「そこ」に出かける歯科医師の倫理とボランティア精神だけに頼って障害者歯科は運営されているのだろうか。せめて訪問歯科診療料くらい算定できるべきではないのだろうか。そうでなければ、誰が一番困っているのかが見えてこない。そう、障害者が一番困るのである。
厚労省に強く望むところではある。

(差別的だ、感覚的に「害」という漢字が可哀想だ、とか、本質を理解せず、しかも肝心なことを何もしないくせに優しいふりをする「障がい」という言葉をあえて使いませんでした)


火曜日, 7月 17, 2018

今できることを一生懸命

30周年記念祝賀会では150名を超す大変多くの皆様にお越しいただき本当に感謝いたします。また、私たちのために過分なお祝いやお花の数々、本当にありがとうございます。これからも一生懸命頑張っていく所存ですから末永くお付き合いください。

そして、、、、文体が変わりますが、、

西日本の甚大な被害とその復興のさなか、夏祭りはもちろん当院グループの30周年記念やらなにやらと楽しげな事がこちらでは続いており、不謹慎なのでは??という不安のメールもいただいたりした。
そうなのだろうか。

私たちは311の大震災を経験したとき、やはり同じようなことで様々な場所で自粛ムードが広がり世間が重く沈んだことを覚えている。自主規制をしても何も解決しないことをわかってはいるのだけれど、何か申し訳ないという気持ちだけで日常を捨てていた方々が沢山いた。気持ちはありがたいが、何も嬉しくは無かった。

「私がなんとかしたい」と、そう思うのなら、自己完結でボランティアに来るべきだし、そうではないのなら日常を今までどおり明るく過ごして頂いた方が私たちは嬉しかった。卑屈になりネガティブな要素ばかりを探していては、実は光が見えない。私たちにも復興の光がほしかった。だからある意味当事者を気にしてはいけないのだ。

出来る事を出来るだけ一生懸命にしていれば、どんな状況に置かれていてもどんな状況の思いでもみんな嬉しいことを私たちは経験した。だから先般熊本の震災の時は、私は行く勇気が無かったし心の底から行きたいとも思わなかった。ただし、経験を生かした歯科的なエマージェンシープロトコルを問われたら行って指示を出すことは考えていた。だが、そんな何処の馬の骨かもわからないやつの指示を聞くとは思えない(笑)。今回は勝手が違いすぎるので足手まといになるだろうと思った。被災しているにもかかわらず広島からわざわざ30周年に参加したかつての勤務医は家族ごと東京にいるらしい。私はそういう所に行く勇気が無い。

災害時直後、復興時、絶対に必要なのは圧倒的な縦の命令系統なんだと何度も言ったが、平和ぼけの日本人にはなかなか受け入れられてもらえないのが現実だった。
みんなの意見を聞いてとか、上の判断を仰がないと出来ないとか、みんな平等公平にを第一優先順位にしてとか、まあ、有事では使い物にならないレギュレーションが蔓延する。
「何があっても全ての責任を私がとるから自由に判断して行動してほしい、ただし命令は絶対だと思ってほしい。」
こういう人がトップに立つか否かで事態の改善スピードが驚くほど違うことを2つの震災で経験しているだけに、現場に行く腰は重くなる。

だから、今できることを一生懸命当たり前にすることこそが、現場で困惑し、疲弊し、悲しんでいる被災者への最大の思いやりだと思っている。そして一生懸命当たり前に過ごすことで、必要なお金も巡り巡ってそこに届くと考えている。





金曜日, 7月 06, 2018

六ヶ所村と風と今

先般、所用で10年ぶりくらいだろうか、六ヶ所村を訪れた。私の知らなかったその変貌ぶりに、ある意味嬉しくなった。


40年程前、車の免許を取ったばかりの頃、夏、横須賀から帰省したついでに父親の車を借り八戸から海沿いを北上してみた。
青森県の太平洋側は基本的に岩手のリアス式海岸とは全く異なり、果てしなく砂浜が尻屋崎まで続いていた。余談だが、80キロにも及ぶ砂浜の途中には、鳥取以上の規模を誇る猿ヶ森砂丘があるのだけれど、米軍及び防衛省管轄の射爆場になっているため立ち入りは出来ない。
そして道すがら、つげ義春が描くがごとくの日本の寒村の景色が続いた。


六ヶ所村を通過した際、むつ小河原開発の残骸をあちこちで見かけた。開発に伴う廃墟は何かもの悲しく、人間のエゴの残骸のようでもあった。

1968年、当時の通産省は太平洋ベルト地帯に集中していた重化学工業産業を、関東東海の公害や過密問題を解決するために、下北半島整備構想試案という国家プロジェクトを発表。石油化学コンビナートや製鉄所を主体とする「世界最大の開発事業」であった。
1970年、当時小学5年生の私達は、野外授業の一環として担任に連れられ3階建てに新築されたばかりの七戸小学校屋上に来た。
晴れたその日、遠くに横浜町の烏帽子岳が見え、なだらかな丘陵が果てなく続いていたのを覚えている。そして担任は言った。

「君たちが高校生ぐらいなる頃、ここからの景色は煙突や大きな建物が無数に見える、日本を支える工業の一大地域となるから、この景色をちゃんと覚えておくように」

担任の言っている本当の意味が何なのか、小学生の我々にはわかるわけはなかった。そして、それがどういうことなのかすら理解は出来なかった。その後、高校生になった私は、オイルショックで全ての計画が頓挫していることなど気にもとめていなかった。

1980後半、荒野の村は原子力エネルギー問題で真っ二つに割れ傷だらけになる。そこに色々な人達の正義があふれ、肝心の地元住民はほったらかし。その状況を聞き、核という問題を真剣に考えた。闇雲に反対している人達、未来を考えて反対している人達、未来のために賛成している人達、目先のことで賛成している人達、みんな正義なのである。私が、とある正義に同調したとは言え、しかし、これは違うなと思った瞬間があった。

一番嫌悪したのは、地元に暮らすでもない、極寒の地吹雪と貧しさも知らない都会のインテリがきれい事ばかりを並べ、そこに全国から信者さん達が集まって地元抜きで気勢を上げる光景にうんざりしたことだ。そして彼らには「日当」まで出ていた。何か、心から最低だと思った。

そこで、日陰から見つめる必要もあると感じ、地元に住む人の見えない事実を探してみた。そこに見えてきたのは、開発に絡む金と群がる人。が、しかし、そこにあるのは貪欲ではなく「人並みの生活」というごくありふれた地元の希望が見え隠れする。
それを否定する権利は誰にもない。六カ所開発反対左翼は「あなた方はだまされている」と説得する。同調する地元住民とそうではない住民。何かおかしい。事実「一杯のインスタントラーメンを兄弟3人で一日一食」。この現実をどうするかが先なのだと言われたら、誰が否定出るのだろう。私が政治家ならなんとかしたいと奔走するだろう。
そういうことを知っていた私だから、今回久しぶりに訪れたこの村でその変貌ぶりに驚きそしてなぜか嬉しくなった。

未来からくすねた汚れた金だと言う人もいる。その人達にすれば核燃関係の金は全てそうなのだろう。かつて、吹きすさぶ風を避けるように板張りの粗末な家で、何かに必死にしがみついて生きてきた方々に、あまりにも優しさのないそしてむごい言い方を反対派の人達は平気で口にしている。
もちろん推進派もかつては非道の限りを尽くしていたと聞く。親兄弟を喧嘩させ、貧しいながらも幸福を感じていた人々を引き裂き、国家プロジェクトに群がる亡者が全国から押し寄せてきた。村が傷だらけになった。
要は、これらの大きすぎる波に飲み込まれ、酷い傷を負いながら完全に引き裂かれた村だと言うことだけが残ったようだった。

今、まるで、ヨーロッパの片田舎の小ささなキレイな町を連想した通りを抜け、人が行き交う姿を遠目に見ながら、なんてありがたい話ではないかと、やや、時間を忘れたのだった。大きなリスクの代償なのだからと偉そうに言う権利を私は持ち合わせてはいない。

スタンフォード型”YES AND”でますます発展してほしいものだ。