本日2月7日は北方領土の日。私のこのブログの左上検索から「北方領土」と検索してください。過去のほぼ怒り記事(笑)が出てきますので。
国後島の素晴らしい景色 |
日魯通好条約(1855年)によると、日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。
その後、樺太千島交換条約(1875年)にて、日本は、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。
日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。しかし、大東亜戦争に敗戦後カイロ宣言において日本が略奪した地域などから日本は追い出されなければならない、、とソ連がこの憲章に参加し言いがかりを付け始めます。北方4島は日本が略奪した地域ではない事は明白なのですが、現在のロシアの社会科の教科書もこの部分を徹底的に強調し、子供達を教育しています。
ポツダム宣言でカイロ宣言は履行されなければならない旨規定されています。ソ連はそれを逆手に取り日ソ中立条約を無視して無抵抗の北方4島を占領しました。1945年のことです。ですからサンフランシスコ平和条約などソ連はどうでも良かったのです。署名しなかったのは不法占拠をわかっていたからなのでしょう。しかし、実際のところは米国のトルーマンがスターリンに耳打ちをしました。「ねえねえ、スターリンくん。あの北方の島々は欲しくないかい?盗っちゃったら良いよ。米国は見てみないふりするから。」とか何とか。。。。
それから79年経ちました。やる気のない日本の政治家達は返還など出来るわけなかろうと、とっくの昔に諦めています。2万人近く住んで居た日本人は既に年老いて、そして、今の若者達には北方4島のまともな教育もされぬまま、竹島や尖閣のように「とくにいらねんじゃねぇ〜?」という日本領土という極めて重要な問題をなるべく避けるようなサヨク教育が当たり前になってきている証拠なのです。これは、支那、半島、ロシアにとって素晴らしく素敵な話ではありませんか。実行支配さえすれば日本という国は黙って何もしない(遺憾砲撃だけはする)と思われて久しいのですから。なんと情けない国を作ってしまったのか。。。。
最近では、国後だけで8000人近くのロシア人が住みます。つい最近ハバロフスクからの直行便がロシアの助成で就航し、多くのロシアや支那からの観光客がその壮大で素晴らしい自然や多くの温泉目当てに大挙して訪れていると言います。一泊4万円ほどのリゾートホテルが3軒ほど建ち、近々プーチン氏も来る予定があるのだとか。ウクライナはどうなったと突っ込みたくもなります。
返せよ!北方4島!!
0 件のコメント:
コメントを投稿